2016/11/26 23:15

 以前、編曲のことについて少し触れたことがあった。確か、あまり突拍子もないコードを使うのはどんなものか、という内容だったのを憶えている。先だってから、イングランドやアイルランドの民謡をアレンジしているのだが、作曲者がいないので(もしくは不明)、とても気が楽。
 日本では、亡くなって50年経つと著作権が切れるので、自由に編曲ができる。しかし、50年ぐらいじゃ、まだ作曲者の息吹や匂いが生々しく感じられ、勝手気ままに料理するのははいささかばかられるように思われる。僕だけかしら、こういう感覚は。
 50年経ってこうなのだから、生存されている方の曲を編曲するなんざ、僕には到底出来そうにない。それはなぜか。編曲される側に立って考えてみると、たとえどのような立派な、著名な作曲家、編曲家でも、やっぱりちょっと困る。要するに、その曲は、僕の手垢や逡巡が詰まっているわけで、いわば、編曲なんてものは、プライバシーの侵害以外の何物でもない。勝手にコードを弄られたりした日にはたまったものではない。あるいは、他人の手で、僕が考えた当初のものより素敵になったりしようものなら、それこそ赤面の極みではないか。
 でもさすがに、どの方でも、存命の作曲家の曲のコードを勝手に変えたり、手を加えたりするのははばかられるに違いない。僕はそのことを言いたかったのだ。自分の身に置き換えて相手の気持ちを慮るのは、さほど面倒なことでもあるまい。また、その程度のことが出来なくて、何がアーティストだと僕は言いたい。何事も、ほどほどがよろしい。相手を気遣いながら、あるいは心の中で許しを請いながら、事に当たろうではないか。