2016/05/05 09:24
若い頃、吉田健一の著作に耽溺したことがあった。彼独特の読点のない不思議な文体。最初は取っ付きにくかったが、直ぐにハマってしまった。なんともいえない不思議な、蠱惑の文脈がそこにはある。
氏の著作に「時間」というのがあった。彼の作品の中では相当難解な部類。言うまでもなく、時間に対する考察だが、それは文明論的かつ哲学的な様子のものだった。僕も「時間」については時々思いを巡らせる。といって、哲学なんぞとはほど遠い、幼稚な思考ですけど。時間は流れる。過去から未来への移行。しかし、僕にとってはただ、今、現在が連綿と続いているだけの話で、過ぎ去っていくという風にはどうしても捉えることができない。ことに物心ついてからの記憶は、すぐ側に、傍らにある。たしかに在るのだ。言うところの時間の流れを縦の軸とするなら、僕のそれは、言ってみれば横の軸。並列とでも言おうか。
第一ですよ。まあ縦軸だとしよう。千年の昔というけれど、そんなに遠いことなのだろうか、果たして。僕は65年生きている。ちっとも昔のことではない。物心ついてからは、ついこの間のような、そんな感覚。その、ちっとも昔ではない人が、たかだか13、4人存在しただけの間だ。横軸ならもうそこには過去という感覚は存在しない。概念がそこにはあるだけ。つまり、僕は過去の人では決してない、ということ。今、ここに確かに僕は存在する、まあ言ってみれば「魂」のような、観念の塊のような塩梅で。
(ここでひとまず置こう。続きはそのうちにまた)
さてと、僕の時間論は、ここで一気に俗に下る。たとえ話をしよう。
行きつけのコーヒー店では、入れ替わり立ち代わり若い女性スタッフの方々にお目にかかって、ちょいと世間話に興じたりするのだが、皆さんとても親しく、親切にしてくれる。この方々と、いわば時間を僕は共有するわけだが、そこに当然生じるはずの年齢差の感覚が僕には存在しない。とても不思議。相手はどう思っているか知らないが、極めて近距離で、あるいは近い、とても似通った世界で共に呼吸をしている、といった感じなのだ。それともう一つ。この方々とは、すでに昔から見知っているといった感覚。袖すりあうも他生の縁、とはよく耳にするが、それとはまたちょっと違う気がする。もっと親近感を感じる。いつもすぐ側に居るような、あるいは居たような。
それは、昔僕を可愛がってくれた明治生まれの老人たちなのかもしれないし、あるいはもっと以前、暮らしを共にしていた人たちなのかもしれない。よくは分らないが、このスタッフの方々とは大概初対面のはずなのに、それがなんだか見知ったお顔に見えてくる。
これは、時間の正体に迫ろうとする時のヒントにはならないか。時間と空間の同義性のようなもの。科学者から見ればなんて馬鹿な奴だと思われるに違いない。でも、馬鹿でも何でも、僕はこの、一種の愛情に満ちた親しげな時間の共有がとても慕わしい。とても有難い。ちょっと大胆なことを言えば、皆さんは僕であり、僕は皆さんなのかもしれない。そんな錯覚を覚える時もある。なんだかわけが解りませんや、これじゃあ。
(またそのうち、考えてみよう)