2016/04/07 23:34

 なに、不要といってもアートでの話。最近故あってネットで画廊を検索しているのだが、「取り扱い作家」の絵に僕は恐れおののいている。なにより、いずれも不必要に描き込み過ぎの感。ディテールに重きをなすのは、美術大学なんかの、そのいわゆるアカデミズムのようなものの弊害ではなかろうか。どうもそんな気がしてならない。つまり、デッサン偏重の置き土産。お上手なのは判りますけど、品が下るというか、いささか五月蝿い気がする。これでは、グローバルな画家が育たない。そんな気がしてならない。問題は、教えている側のへなちょこぶりにあるのではないのか。つまり、本物のアーティストが指導に当たっていないのではないかという疑念。これは由々しき問題ですね。
 つまり、偏狭な育てられ方をした画家は、周りの世界が目に入らない。まるで新興宗教の狂信者たちのように。どうです、そんな気がしてきませんか。もっと単刀直入に自分のビジョンに向き合うこと。もっと自然必然に描くこと。もっと大局的であろうとすること。それが大事だと僕は思う。
 もし歪んだままでいるなら、それを正そうじゃないか。折角の才能がどんどんどこかに逃げていくよ。やっぱり、ある意味で、アーティストはニューヨークやパリなんかの厳しく恐ろしい環境に身をさらして、己の来し方を客観的に点検してみるのも悪くない。僕なんかはそんな余裕もないし、どうぜ歳が歳だからもう無理だけど。才能に恵まれた若い人たちには、ぜひそうしてもらいたいものだ。