2016/01/03 23:20

 なんだか偉そうだけど、今後のブックデザインのあり方なんかをちょっと考えてみたい。
 というのも、先日の朝日新聞の「GLOBE」で、フランスの書籍の評価や評判なんかを目にしたのだが、話題の何冊かのジャケットデザインを見て、軽いショックを覚えたからだ。というか、フランスの本は、意外や意外、デザインがシンプルかつ相当オーソドックスだということにちょっと驚いた。かねがね、最近の日本のブックデザインは、いささか凝りすぎていると思っていたものだから、そうそう、これでいいのだ、これが本来あるべきブックデザインの姿勢だ、と妙に腑に落ちたのだった。例えば、最近の中国の本。あるいは韓国の本。いずれも日本を意識しているのか、年々デザインが凝ってきているというか、ある意味、デザインの覇を競っている感がなくもない。この密かな〝デザイン競争〟(僕だけの認識かもしれないけど)は、はてさてどこまで行くのだろう、と実はちょっと気がかりだったのだ。
 いったいブックデザインなんかで奇を衒ったり、覇を競ったりするのは、なんだかちょいと大人気ないのではなかろうか。もっと、シンプルでオーソドックスであるのが大人の感覚なのではなかろうか。そんな疑問がいつも気持ちのどこかに引っかかっていた。少なくとも、今の本のジャケットは自己主張ばかりが目について(タイトルを金箔で捺す必要が一体どこにあるのか)、余韻のようなもの、ちょっとしたエスプリや諧謔の余裕すら感じられない。どんなにデザインが進化を遂げようが、この余裕だけは手放してはいけない。でなくては、出版人の名がすたると思う。
 しかし、このデザイン競争の渦にいったん巻き込まれると、もはや過激化の波は避けられない。営業サイドからも、もっと派手に、目立つようにという注文がつくのは目に見えている。それが書店での平積みの条件とでも言わんばかりに。しかし考えてみると、営業サイドが本の体裁に注文をつけるのはやはり筋違いですね。そう、ちょっと筋が違う。そんなことをいつまでも続けていると、本当に碌なことはない。この国の一番いけないところは、公私の混同、立場や役割の混同、あるいはそれにともなう無責任だ。
 本離れがいよいよ加速している。これは出版社の責任ではない。編集者の責任でも営業サイドの責任でもない。ましてや、スマホなんかに責任をなすりつけては、スマホが可哀想だ。この責任は大筋で、日本人が〝大人化〟を怠ってきた、というか背を向けてきた、われわれ全体にあるのではないかしら。言い換えれば、もうそろそろ大人への階段を登る時期を迎えているということなのだろう。これは本離れだけに限った話ではない。政治も含めて何もかも。かつて、日本人の精神年齢が12歳と言ってのけたアメリカ人がいたけれど、これはある意味で的を射ていたのだ、悔しいけれど。

 デザインに使う素材は何でも良いと思う。肝要なのは、実用書や参考書以外の一般的な書籍では、デザインがうるさくない、ということに尽きよう。目立ちすぎないということ。いっそ、素っ気ないぐらいが余情があって美しい。そう、この「美しい」という感覚が大切なのだと思う。本を所蔵したいと思う人は概ね、心のどこかでそれが本棚にある様子を微かにでも思い描く。ある種の、インテリゲンチャーへの憧憬や美術品のコレクターにも似た心情は、今も健在だ。一冊一冊のデザインが雄弁すぎると、全体にとてもうるさくなる。これでは〝積ん読〟の人たちにまで見放されるに違いない。作る側も、一歩退いて考える「葦」であることが今求められているように思う。
(つづく。やっぱりちょっと長くなりそう)
と思ったけど、やっぱりこのへんでお開き。こういうことはあまり喋り過ぎないことが肝心。あとはお一人お一人でお考えください。

そうそう、僕は今年もブックデザインの仕事に果敢に挑み続けるつもり。
編集者の皆さん、ご遠慮なくどしどしお仕事をお出しください。
少なくとも、これまで以上に斬新でセンスの良いデザインが生まれると思いますよ。このところ、結構調子に乗っていますから。
どんなジャンルのご本でも大歓迎です。あ、成人向けのだけはご勘弁を。ふふ。