2015/12/29 09:09

これも、5、6年前にホームページに載せた原稿です。再度掲載します。

鎌倉のスケッチのこと(2)

 1(最初のほう)では、蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線のことを書いた。絵も写真もあったものではない、と書いた。「蜘蛛の巣のような」というのは、先日テレビで英国人が東京の空のことを形容していた言葉で、以来、小生も気に入って時々借用している。
 昔、六本木の鳥居坂というところに6年ばかり居たことがある。なんだかお大尽のように聞こえそうなので補足するが、そのころはまだバブルが続いていて、広告の仕事やなんかをしていたので、小生のような仕事の人間は、皆だいたいそこいら辺にいたものなのである。そういうものなのである。
 目の前にはシンガポール大使館があった。その、目の前の立派な大使館の、そのまた玄関の前には、ひときわ立派な電柱(のように見えた)が立っていて、どうしてだかそれには立派な質屋(のように見えた)の広告が巻かれていた。いくらなんでも、これはまずいんじゃないの。 国辱とまでは言わないが、やっぱりなんだかまずいですよ。
 そのころ、京都の呉服屋の老主人が、小生と気が合うのか、上京の折に必ず訪ねてきたものだが、四方山話のなかで、「京都のあの電線と電柱はなんとかなりませんかね。パリやロンドンとまではいかなくても」と切り出したことがあった。すると老主人は「会合でそんなことをいう人もないではないが、あれも京都の伝統的な風景だという人もいて、結局うやむやになってしまう」と返された。だったら、幕末のころなんかはどうだったんですかね、と口をついて出かかったが、嫌味に聞こえそうなので飲み込んだ。
 (1)で、鎌倉の電線と電柱のことにちょっと触れたのは、もちろん、意を同じくするする人が少しでも増えてもらいたいからである。他人事ではなく、自分の街の周辺を見渡してもらいたいからである。中国などでは急速に電線の地中化が進んでいるようで、それは観光地だけにとどまらず、旧満州などの辺境の町にまで及んでいる。しかし、日本は資本主義、自由主義の国だからなのか、なかなかうまく事が運ばないようだ。質屋さんや歯医者さんなどの広告主、それに群がる人々などが事をややこしくしているのではないか、などとつい勘ぐりたくもなる。高速道路なんかもう要らない。それより、町中の路を美しくする算段を望みたい。
 要は、私たちがぶつぶつと呟くことだと思う。そのぶつぶつが段々大きくなると、政権だってひっくりかえるのである。先だって読んだ丸谷才一のエッセイの中にも(たまには本ぐらい読みますさ)、電線や電柱を早く無くせ、という主旨の一遍があり、わが意を得たりと嬉しくなった。
 嬉しくなったといえば、最近久しぶりに銀座を歩いたのだが、ナントカ通りといった枝別れの路からもすっかり電線が姿を消していた。今はもう無い個展をした画廊の通りも、すっかりきれいになっている。その個展にふらりと二度も現れて、驚くなかれ、絵まで買ってくださった「くのや」の若主人。小生のようなどこの馬の骨ともしれない者の絵に目をとめてくださっただけで、ああこの人は偉い人だ、大したものだ、と感嘆した。何年か前にテレビで、粋に和服を着流したその方を拝見した。すっかり貫禄もついて、今では銀座の世話人のような立場にあるという。電線の地中化は、きっとこのような方々の肝煎りに違いない。
 嬉しいといえば、このたびのスケッチ展の案内と(1)の原稿を鎌倉の新人市長である松尾崇氏にも出してみたところ、驚くなかれ、その日のうちにメールでご返事をいただいた。単純だから、こちらまでなにやら急に偉くなったような気がした。有難いことに拙文の字句の間違いまでご指摘をいただいたが、これはでも先方の勘違いで、そのことを申し上げると、照れているようなご返事が戻ってきた。肝腎の電線を無くす話は、うやむや。