2015/10/29 19:14

 最近、若い人の編曲が耳に障ることがある。一番気になるのが、奇を衒ったコードの使い方。本当に、全てに奇抜なコードが当てられているものもあり、これが果たしてその曲なのかどうか、判然としないこともある。本当にびっくりする。
 ご本人は、きっとなにか新しい曲でも作った気でいるのかもしれない。でもね、これは決して創造なんかではありません。だって、コードはすでに存在しているものだし、ただ奇を衒った選択をしただけの話。少なくとも、名編曲家として名の知られる人たちは、そのような幼稚なことはしない。嘘だと思うなら、実際に聴いてごらんなさい。どれもこれも、ごく自然で、真っ当だから。新鮮なコードを潜ませている箇所はごく一部で、だからこそ、その新鮮さがとても印象深く、忘れがたいものとなる。
 ご存知のように、ここ何年か、僕は日本の歌、唱歌や抒情歌なんかを合唱や弦楽に編曲し続けているけれど、コードの使い方にはとても神経質だ。だって、大抵の場合、作曲者が最初に考えたコードが厳然と存在しているから。それはピアノの伴奏なんかを聴くと明らかだけど、言うまでもなく、昔の歌なんかは今ほど多彩なコードは使われておらず、基本的な3和音が柱になっている場合がほとんど。あっても、せいぜいセブンスやディミニッシュぐらいか。だから、新たな編曲だからといって別段新しいコードを持ち込む必要はない。ないが、せめてなにか新しい感覚を一つぐらいは持ち込みたい、というのが編曲者たるものの意地、というか見栄だろう。しかし、これも度を越すと聴いていていたたまれなくなる。少なくとも、曲の自然な流れや、原曲から醸し出される独特の匂いや風情、情感といったものを妨げてはなるまい。
 僕も、曲中2、3カ所は新しいコードの使用を試みるが、そのあたりが限度ですね。仮に新しいコードを多用するとして、やっぱり原曲の雰囲気、というかアイデンティティをなるべく壊さないように留意する。でないと、そもそも作曲者に対して失礼ではないだろうか。
 僕がいずれあちらの世界に行ったとき、先に来ているはずの諸先輩から「君、あれはやりすぎだよ。あれじゃ僕の曲じゃなくなっちゃうじゃないか」なんて文句は言われたくないもの。簡単に言うと、つまり、そういうことです。