2015/08/18 17:13
初めてのちゃんとした就職、というかちゃんと試験を受けて入った会社は、小さな(でもないかな)音楽の出版社だった。その編集部の先輩に、モーツァルトしか聴かないという御仁がいた。あるとき、君はどんな作曲家が好きなの?と尋ねられたので、バッハとドビュッシーとガーシュインです、なんてちょっと気取った答え方をした。反応がないので、もちろん、チャイコフスキーやブラームスなんかも聴きますけど、と付け加えた。すると、口を結んでニンマリした。後で別の先輩から、あの人はモーツァルトしか興味のない人だから、と聞かされたものだ。若かったのだろう、その偏狭をちょっと憎らしく思った。
恥ずかしながら、モーツァルトの神髄、というか凄さを思い知ってからまだ10年と経っていない。それまでは、よく聴きもしないで、きっとどこかで馬鹿にしていたところがあったのだと思う。古くさい、というか誰にでも書けそうな、といったイメージが僕の中には確かにあった。しかし、さまざまなな音楽の体験や人生経験ってやつを重ねるうちに、これはやすやすと真似なんかできる代物ではない、彼はとてつもない天才だということが次第に判ってくる、というかほの見えてくる。遅まきながら、とても新鮮な音楽に聞こえる。
音楽としての美しさや完成度の高さは言うまでもない。一体何が彼を天才たらしめているのだろう。性懲りもなく、作曲家としての自分の作法と比較しながら(いささか辛いけど)、何度も問うてみる。
彼はやはり、父親への手紙でも述べているように、確かに曲の全体像を瞬時に思い描き、それもディテールの鮮明なアイデアやイメージにまで及んでいたのではないかと思われる。大体において、どの曲でも、その展開に淀みというものがまったく感じられない。いわば確信犯。もしそうでないとすれば、ある種のずば抜けた予知能力のようなもの、音楽が彼の中で始まると、次々に最良の展開が彼の手中に勝手に転がり込んでくるような、そんなとんでもない能力に恵まれていたのではないだろうか。もちろんそのような予知的な能力は、僕のような凡才でもある程度は備わっている。でないと、曲の始末がつかないから。しかし、彼の場合の曲の展開は、やはり桁外れに自由で、桁外れに美しく、桁外れに新しく、桁外れに感興を催さしめる。もはや、天才とでも言うほかはない。
モーツァルトが一体どれほど多くの人たちに、安らぎや興奮を与えてきたことだろう。なにしろとてもロマンチックだ。ある意味で、ロマン派よりロマンチックだ。教会用の音楽はどれもただ聞き惚れるばかりだし、たとえばピアノコンチェルト(すごく凡庸だけど、とくに20番や21番の第二楽章なんて)の喉ごしなんか、もうたまらない。よく冷やしたラインの白のような味わい。
子供の頃、初めて聴いたのが「アイネクライネナハトムジーク」。半世紀以上も昔の、アマチュアの、それも子供たちの演奏だったということもあって、こんなイヤらしい音楽はない、もう二度と聞きたくないと思ったものだが、それがどうだ、カラヤンのご遺徳で、今では何度でも聴き返したくなるほど惚れちゃっている。まあその、見方をかえれば、僕の音楽の能力なんて、その程度のレベルということになるのかも。やっぱり多寡がしれているな。まいったまいった。