2015/06/15 20:22

 書家、というより抽象画家の篠田桃紅のことを書いてみたい。氏とかさん付け
で呼ばないのは、あれほどの大家にはかえって失礼だから。それと、あえて「彼
女」と呼ばせていただくこともお許し願いたい。
 最近、「一〇三歳になってわかったこと」という本を上梓されたことで話題に
なったが、昔から、僕にとっては尊敬せずにはいられない、もしくは襟を正さず
にはいられない画家のお一人だった。初めて作品を見たときの心地良いショック
は、いまでも忘れない。エッセイも貪り読んだし、当時かなり影響を受けもした。
恥ずかしながら、彼女の作品を模倣した感じのものまで描いてみたことがある。

 篠田桃紅とはこういうことだ。つまり、書画のなかの品性が漂っているあたり
を、心の目でずうっと辿っていくと、すっかり贅肉を削ぎ落とした彼女の線や面
に必ずたどり着く、ということ。もちろんこれは僕なりの感覚ではあるものの。
しかし、彼女はそんなことを一度たりとも考えたことはないはず。はばかりなが
ら小者の僕でもそうであるように、最初にアイデアが閃くか、もしくはいたずら
に引いてみた線が次の線、重ねて次の線。それに対象をなす大きな平筆の薄墨の
面などを呼び寄せて作品が出来上がってゆくのだと思う。あるいはその逆でも。
これはしかし、一見簡単なようで、なかなか難しい。出来ない人には、絶対にで
きない。おそろしく研ぎすまされた感性、あるいは書に由来するであろう空間の
認識、余白との間合いや対比。とてもストイックな格闘だ、己との。つまり、極
めつきの美的センス。音楽でいえば、武満徹をとりあえず仮にあてておくほかは
ない。日本でしか生まれ得ない美の一極致とでも言っておこうか。

 僕が真似をしたと疑われたときの作品は、墨ではなくて、紺色のガッシュ(不
透明な水彩)だったけれど。初めての個展で自信たっぷりにそれを並べてみたと
ころ、たまたま覗いてくださったどこだかの画廊主に厳しく詰問され、赤っ恥を
かいた。でも、そんなつもり(どんなつもり?)じゃなかった。言い訳をするつ
もりはないけれど。広い面が一気に塗れる不織布の棒のようなものと、普通の書
の筆を同時に使って構成しただけのことなのだ、自分の中では。真ん中に不織布
で薄く塗った正方形を描き、真ん中を濃い細い一本の線が縦に貫く、というもの。
1996年当時、そのような構図の絵は彼女の絵にはなかったように思う(不確かだ
けれど)。しかし確かにこれでは、彼女の延長線上だと疑われることにもなりか
ねない。その後の創作活動において、とても有益な、有難い忠告でしたね。以来、
僕はオリジナリティにすごくこだわるようになった。絶対人の真似はしないし、
疑われそうなものは断じて作らない。そう心に決めた。でも、知らずして空似の
ようなことがあるかもしれない。いつだって、おっかなびっくりだ。いやはや。
作曲や編曲でもその姿勢は変わらないつもり。でもやっぱり、似ているものがあっ
たりしたら困るな、と気が小さいからいつもキョロキョロしているような案配。
でも、誰の絵も記憶になく、誰の絵も見ないで描いたのに、なんだか誰かの絵に
似ているというのは許されると思う。それは断じて本人の中から生まれてきたに
は違いないのだから。

 103歳だってさ。いやはや、言葉もない。先だって、NHKで彼女のドキュメン
トを見たばかりだが、その明晰でちょっとシニカルな語り口には唖然とした。実
に魅力的。ずっと独身を通されたようだけど、なんだかもったいない、とつい余
計なことまで考えた。僕にはそれほど美しく感じられたのだ。容姿の魅力一つを
とっても、若い頃に彼女がニューヨークに単身乗り込んでいったときに撮られた
写真より、今現在のほうがなんだか透き通るようで、ずっと美しいと思う。能面
が向こうのほうに透けて見えるような、かすかな艶かしさ。喉のあたりのふくら
みがちょっと心配にはなったけれど。
 彼女の手から、今日も誰も目にしたことのない新しい美が生み出される。とて
も喜ばしくて有難いことだ