2015/06/11 22:30

 驚くなかれ、僕はピアノを持っている。凄いでしょう? 妹が僕に、やっと作曲家になれたのにピアノがないなんて、と哀れんで、自分の高価な電子ピアノを気前よくくれたのだ。いいヤツだな、ほんとに。
 僕は中学生になると、吹奏楽部に入ったのだが、父がフルートを買ってきてくれた日のことを今でもよく覚えている。でも、ピアノは無理。妹はピアノを弾く友達を見て、よほど欲しかったとみえる。母にせがんで足踏みのオルガンはなんとか買ってもらえたが、ピアノはやっぱりちょっと無理だった。今では嘘みたいな話だが、半世紀以上の昔は、ピアノはとんでもなく高価な、お大尽だけが持つことを許された代物だった。
 妹が大学を出て、高校の教師になったとき、はじめて自分のピアノを手にすることができた。嬉しかっただろうね、すごく。ただ、ピアノという楽器は小さい頃から馴染まないと、弾くのはやはりなかなか難しい。
 さて、ピアノを貰った以上は、弾かなければ(練習をしなければ)意味がない。とにかくバイエルでしょう、なんてったって。でも、齢が齢だから、指がなかなかが思い通りに動いてはくれない。なんにせよ、腕っぷしと堪忍がいる、ということ。幸い、楽譜だけはなんとか読みこなせる。
 高校生になって音楽の大学に行きたいと思ったことがあったが、なにしろ田舎者だから、なんとなくピアノが弾けないと受験もままならないことを知ってはいても、それがどれほど大変かつ厄介なものであるか、よくわかっていなかった。なにしろ芸大の作曲を受けるような人たちは、高校生の頃から東京にたびたび足を運んで、芸大の作曲の先生に教えを乞う必要があるという話を聞いた。たまげたね。言葉もない。生徒も生徒なら、先生も先生だ。結局受験はあきらめるほかなかったわけだが、作曲はとどのつまり、五線紙の上でオタマジャクシと格闘したり、あるいは仲良くするようなことだから、ピアノがなくたってなんとかなる、と思っていた。いやはや若気の至り。でも、かの有名な武満徹も、すでに作曲の才能が知られているにもかかわらず、ピアノを持ってはいなかった。すでに家をなしていた黛敏郎は、それを仄聞するや、早速奥方のピアノ(スピネットというのかしら、小振りの縦型のもの)を贈ったという。本物の才能は、やっぱり本物の才能でないとなかなかその価値を知り得ない。これはその好例だ。
 今となっては、音楽の大学なんか行かなくて良かったと断言できる。とくに作曲などはきわめて専門性の高い分野だから、若いときに作曲家になれたとして、まず潰しはきかない。第一、学校の先生になんか、僕にはぜったいなれっこない。
 元来学校のお勉強にはあまり関心がない、というかオツムの中がいつもなにやら散らかりっぱなしで、これは子供の頃からの筋金入り。したがって結局大学にはなんとか入れたものの、馴染めずに早々に退散した。今日まで長い間デザインやコピー、絵やなんかで食いつないできたわけだが、すべて独学でやってきたし、なんとか自分で道を切り拓いてもきた。もっとも、父が絵を描く人だったから、ちっとは才能を貰っていたのかもしれない。音楽もそうだが、芸術はことに、大学で学ぶものではない、と今でも信じて疑わない。だって、そもそも学問ではないのだから。技術に習熟することは可能かもしれないが、アイデアやセンスは決して学校では学べない。
 今にして思うに、デザインや絵だけでも十二分に面白いのに、作曲や編曲でも遊べるというのは、なんとも楽しくて喜ばしい。決して間違ってはいなかった。これで良かったのだ、他に道なんてなかったのだ、とつくづく思うこのごろだ。