2015/05/26 08:54

先日、「Love」のシリーズを店先に並べたが、新しいほうの2点は、いわゆるその、愛の行為を絵にしたものである。
でも、「目」をもし描きいれなければ、ただの抽象にすぎなくて、意味なんて詮索する人は誰もいないだろう。古代エジプトの棺桶が向き合って重なっているに過ぎない。
愛の交わりという、まあ、その、人間にとってもっとも重要な行為を、いつか描いてやろうとはひそかに思っていた。それも高いところにまで昇華された、正しく人間的な行為(ちょっと凄くなってきた)。余計な情念を呼び覚まさない純粋な形象として(やれやれ)。文学だって、目を逸らさずに男と女のことがちゃんと書けなければ、本物とは言えないのではないか。でも上等な文学は、一時そのような、つまりその、ちょっと猥褻な気分に見舞われても、全体としては穏やかで、上品で、いやらしさなどは微塵もない、と思う。ムラカミの小説がその良い例だ。
年のせいもあるのかもしれないが、いわゆる「春画」のような具体的なものにはもう興味がない。少し寂しい気もするが、もう手遅れだ。ピカソの凄いところは、永遠かと思われるほどの生々しいエネルギーを蓄えていたらしい、ということ。とても太刀打ちできる話ではない。ああ、フランソワーズよ、幸いなるかな。
まあ、そんなことはどうでも良い。問題は、僕がこれらの絵を描いて、また一歩、自由な、無邪気な精神の状態に近づくことができたらしい、ということ。「現代音楽」の桎梏から開放された話を先に述べたが、それに匹敵する、といってもいいと思う。あるいは、それが引き金になっていまこの状態があるのかもしれない。
純粋に自由で、無邪気でいることはやっぱり難しい。社会的にもいろいろと問題を引き起こすだろうしね。でも、モノを作るときに、これほど有意義な精神や態度が他にあるだろうか。作品の品格やその価値は、まさにこの自由と無邪気にかかっている、と常々僕はにらんでいる。これからも、心の中で、闘いはずっと続く。邪気と無邪気の。