2015/05/24 11:39

「現代音楽」と呼ばれているものは、なにも現代の音楽全てを指すわけではなくて、そのいわゆる、きわめて特殊な、マニアックな、自己完結的な、ほとんど誰からも好んで聴かれることのない音楽、といって良いかと思う。
明確な定義があるわけではないが、そのほとんどが無調(嬰ヘ短調とかなんとかじゃなくて)といってよく、あるいは図形の楽譜だったりして、つまり前衛的なのである。かくいう僕も、ついこの間までは、この分野で認められなければ作曲家として一人前じゃないと思い込んでいた。僕だけではない。今も音楽大学の作曲科なんかで学んでいる人たちは、そう思い込んでいるか、あるいはそう思い込まされているに違いない。これはもう、音楽の七不思議のひとつに数えてよいぐらいのもの。
しかし、よくよく考えてみると、これはじつに愚かな、ばかばかしい話ではないかと思う。誰からも好んで聴かれないものを、なぜわざわざ作る必要があるのか。必然、作品は売れないから、作曲家は学校の先生にでもなるほかはなくて、でも自尊心だけは身体にべったりと張り付いているから、まちがっても歌謡曲なんか書かない、書けない、という寸法になる。
僕は音楽学校も出ていないし、ピアノの腕はせいぜいバイエル程度だし、歳はとりすぎているし、背も低いし、どうせコンクールに出品しても見向きもしてもらえないだろう、ぐらいに思っていたが、驚くなかれ、目に止めてくれた審査員がいた。
ただの入選ではあったが、もうこれで死んだっていいや、ああ生まれてきて良かった、ぐらいの感激を覚えたものだ。これで作曲家と自称しても誰からも文句は言われない、と思った。作曲のコンクールは、絵のそれにくらべて驚くほど数が少ない。威張ってみたくなるのも道理ではないか。
おかげで、これでもう「現代音楽」という名の桎梏からは開放される、とそのとき思った。僕の場合、無調の深刻ぶった音楽なんて書いていてもちっとも面白くない。これからは、ワクワクしながら楽しんで書けるものだけをやっていこう。なに、さげすまれたって、もう歳が歳だもの、平気さ。
絵もそうだけど、うまく描いてやろうという気持ちで描かれたものは、品がなくていけない。第一、なんだか面倒くさそうで見ていられない。あるいは見ていて伸びやかな気持ちがしない。異論はあるかもしれないが、日本でも人気のある印象派の画家達や、ピカソなんかもそうだけどさ、じつに生き生きと、楽しそうに描いている。あの「ゲルニカ」ですらそうですぜ。衒いもないしね。僕の目にはそう映る。
兎に角だ。僕はもう歳なので、なにもかもこれからはやりたいようにやろうと思っている。誰にも文句は言わせない。
なんだかちょっと偉そうかな。どうかご勘弁のほど。